思惟 伝えることの難しさ

コロナ禍にあって、おこもり生活がながくなり、すっかり「お茶会」から遠のいてしまっています。

その中でも、色々考えることがありました。

お茶会と、お茶をするのは同じようですが、違う。
お茶会という、何か目的がある「会」は、その目的を明確にしないと、参加した人がガッカリしてしまうことも多い。けれども、その目的が、100%伝わるかというと、そうでもないので難しいところだろう。なと。



先日閉会となったオリンピックですが、競技を皆でやって、観て、たのしむという目的は果たされたので、まあまあ成功だったのだろう。その他の面では、大失敗だと思いますが。
その中で、ガッカリしたのが開会式
多々問題もあり、コロナ禍ということもあり、二転三転したために大変だったろうと思うが、軸のするメッセージが全く伝わってこず、何かの発表会を見させられているようだった。
考えるに、開会式の目的がはっきりしておらず、とにかく式の色付けを考えられるだけ並べた。ということなのではなかろうか。
そもそも、このご時世にオリンピックを強行したIOC も政府もきちんと目的を示していない。その為、運営側もどうすれば良いのか困ったことだろう。そのうえ、年寄りたちからは、歌舞伎を入れろだの、東京音頭をやれだのいわれて、とにかく発表会の演目に入れなくてはならなくなった。そして、多様性だの、復興のあかしだの、様々な言葉を並べられて、どれを1番にすれば良いのか分からず、開閉会式のメンバーらは演出プランどうこうより、発表会の進行を進めることに力を注いだ結果、あんなことになってしまったのでは?と考える。
当初のメンバーが進めていた開会式の内容が、どのようなものだったのかは分からないが、もしかしたら、演出が派手になっているだけで、発表会の様子を呈していたのかもしれない。今となっては分からないが、しがらみが多い日本でのオリンピックは、それを拒否できるだけの強いプロデューサーが出てこない限り、今後も発表会になるのではないかと思う。

人に、何かを伝えるというのは、本当に難しい。言葉で補佐できるものならばまだ良いが、受け手の感覚に委ねるというのは、半分も伝われば大成功なのではないだろうか。
お茶会という、比較的人数が少ない会でも、何かを表現し、伝えようと思うと、お茶のことや会場のこと、さらには、ゲストのことを色々と考えてしまい、こんなことならただお茶をする集まりにしとけば良かったと、後悔することも多々ある。
ずっとひきこもっているせいか、年なのか、自分の何かを表現し、伝える努力より、何もせずに内にこもり探求する方を選ぶようになってしまった。
チャレンジの年だと占いではあるのに、、、


cha-bliss

日々のお茶の時間を そのときを想う cha-bliss 茶・至福のとき