思惟 お茶に求めるのは 2
自分を救済
なるほど
ある人が言った言葉がストンと腑に落ちた
それを言った人は、音楽をやっている人で、自分が音楽をするということを考えた時に、そう思ったのだそう。
音楽によって、違う世界に浸ることができる。
勿論、それが自己表現のひとつになっているということで、自分というものを出してゆくことができるというのもあるけれど、根本にあるのは、音楽によって、今ある環境から別の世界へゆくことができ、そのことが自分の救済であるということ。
お茶をするのも、淹れるという行為に集中したり、何を淹れるか考えたり、そのお茶を飲むことで、いろいろなことをリセットしたり
何より、不思議とお茶を口にするときは、それまでと違う時間が流れるような気がするするのだ。
違う時間
それこそが、救済なのだろか
お茶をしながら、いろいろなことを考える
それも救済なのだろう。
コロナ前の自分にとってのお茶は、表現のひとつであった部分が大きいが、誰かに向けてではなく、自分に向けたお茶を楽しむことで、違うことを見出せたような気がする。
お茶をするということは、私にとっては逃げ場でもあり、再出発のときでもあり、救いでもあり。
日々、そんなお茶のときが積み重なってゆくというのは、とても贅沢だろう
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