思惟 お茶に求めること
お茶をする
「お茶の時間」に何を期待してお茶を淹れるのだろうか?
2020年は、コロナのために家にこもり、ひとりでお茶をすることが多かった。
人にではなく、自分に淹れるお茶
それまでは、お茶を淹れたり、お茶をたのしむとき、多くは自分以外の人がいて、お茶を交わしながらの時間が楽しかった。
その時の「お茶」は、潤滑油のような、その場を特別な何かにかえるちょっと特別なものだった。
お茶そのものもそうだが、お茶お淹れる時間や仕草、その中に込める思いなど、色々なことをあらわすことが出来るのが「お茶」だと思い、そういう面にとても惹かれている。
コロナで、ひとりでいれて飲むお茶は、特別な空気感をつくるツールであることにかわりはなく、お茶の時間は、何かを感じることが出来る。
だが、「ひとり」ということで、何かがかわりつつあるようだ
お茶会をひらくとき、第一に考えるのは、ゲストのこと。そして、そのゲストのためにお茶を用意して、席を整えて、おもてなしの演出をあれこれ考える。その一部に、自己主張というか、自分自身の表現したいことを盛り込むのが、お茶のたのしみのひとつだが、コロナでひとり茶が続き、これらのことをあまり考えなくなった。
「お茶」というものが人に嗜好されるようになってから数千年
いまだ、それを嗜好することが続いている
飲料として愛されるのは分かるが、それが文化として、こんなに長く人々に浸透しているということは、お茶に何があるからだろうか。
同じ飲み物でも、ワインには、作法だのしつらえだのということはみられない。お茶とは不思議な飲み物だ。
茶道にしろ、アフタヌーンティーにしろ、縁側で飲むお茶にしろ、こんなに長く求められる「お茶」
人々は、いつもお茶に何を求めてたのしんできたのだろうか。
お茶の迷宮にハマってしまったので
お茶を淹れて、また考えたいと思う
続く
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